先週末に小学校6年生の娘と、学校で課された自由研究課題を調べに神奈川県の江の島へ一緒に行きました(写真左上)。≪もんじゅ≫の授業とは直接の関係はありませんが、夏休みの自由研究のご参考になるかもしれないと思い、ご紹介します。
娘の学校では、学期ごとに習う理科の単元の予習を兼ねて、提出が義務付けられていない自由研究が奨励されています。研究レポートは、書籍やネットで調べた知識をまとめる部分と、実験・観察・調査などの結果をまとめる部分と、半々で構成することになっています。後半部分は娘一人で行なうのは難しいので、私も時々お手伝いをしています。今回いくつか提示された課題の中で娘が選んだのは「地層と地質年代」でした。地質年代とは、新生代、中生代、古生代、先カンブリア時代などです。その時代の地球や生物の様子について知ることができます。
江の島へは家から電車に乗って1時間ほどで着きました。ふだん遊びで行く時は江の島に着くと、まず江島神社の参道を上るのですが、今回は右に曲がって江の島の西側の崖を見に行きました。ネットで調べると、江の島の地層の大部分は約1,500万年前の中新世にできた凝灰質砂岩とのことでした。実際の岩肌はやはり砂と泥が混じっていて、指で押すとボロッともろく崩れました(写真右上)。江の島の向かいを走る片瀬川から流されてきた土砂の堆積が地質に関連しているのかもしれません。
次に、江の島の上部にあるサムエル・コッキング苑を過ぎて奥へ下っていくと「山ふたつ」という観光スポットがあり、その崖の壁は赤茶色をしていました。観光用説明看板には、ここは富士山・箱根山から降ってきた火山灰が積もってできた関東ローム層であると書かれています。調べると関東ローム層は更新世の中期(78~12万年前)に形成したとあるので、中新世の凝灰質砂岩の上に更新世の関東ローム層が堆積したことがわかります。この赤茶色の地層は柔らかくて草花が生えていました(写真左下)。
また、江の島の東側には聖天島(しょうてんじま)という場所があり、何層にも重なった地層が露出していました(写真右下)。もともと聖天島は江の島とは別の島だったのが、1923年の関東大震災で隆起して江の島とつながり、1964年の東京オリンピックで江の島がヨット競技の会場になると、埋め立てられて江の島の一部となりました。前述のように江の島の西側は、地層の方向が不明な砂岩であったのに対して、東側の聖天島は地震による地層の断層と褶曲(しゅうきょく)が明確に見て取れる硬度の高い地層でした。
他にも、島の一番奥にある「岩屋」と呼ばれる海食(波が特定の地層を削った)洞窟内には、古くは欽明天皇(4世紀)や弘法大師空海(6世紀)、源頼朝(10世紀)が、新しくは与謝野晶子(19世紀)らが訪れ、それぞれの時代にゆかりの像や歌碑が造られているなど、歴史・文化的にも学習の材料がたくさんありました。場所によって異なる江の島の地質や地層を勉強して、観光で訪れる江の島とは違う顔を知ることができました。
午前中からずっと歩き続けて疲れた後は、夕食に地元で獲れたシラスがたくさんのった海鮮丼を娘と食べて帰ってきました。娘は今週中に、今回の江の島での調査を図表や写真入りのレポートに仕上げなくてはいけません。レポート作成の過程で、机上の知識が体験を通して血肉化した肌感覚の理解へと昇華することを願っています。
(高橋門樹)