昨日、5年後に日本の紙幣のデザインが一新され、一万円札の人物が福澤諭吉から渋沢栄一になると発表されました。渋沢は1840年に現在の埼玉県に生まれ、後に「日本資本主義の父」と呼ばれた実業家です。有名な著作に『論語と算盤』(1916年)があります。算盤(そろばん)と聞くと、そろばんがどのように取り上げられているかが気になる、そろばん関係者の方々もいらっしゃるかと思います。

 『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)の本文最初のページ(21ページ)を開けると、「算盤は論語でできている」(写真)との衝撃的?な言葉が目に飛び込んできます。ここで渋沢が使う「算盤」とは、木枠と軸・珠で作られた計算器具のことではなく、経済活動や実業を指しています。「論語」については次のページで「仁義道徳。正しい道理」と言い換えています。

 渋沢は、「商売はおのれを利することを眼目とする」、「それゆえに、利殖と道徳とは一致せぬという人もあるが、これは間違いで、そんな古い考えは今の世に通用させてはならぬ」、「孟子は、利殖と仁義道徳とは、一致するものであると言った」、「私は論語と十露盤(そろばん)とをもって指導している」と説きます(170~171ページ)。

 では、算盤と論語はどのようにして一致するのでしょうか。彼はその理由を「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えている」と説明します(22ページ)。倫理なき商業活動は、社会を危うくしかねないとの懸念が示されています。

 こうした経済活動の象徴としての「算盤」と、職業倫理としての「論語」の関係は、今日のそろばん教育に当てはめることができるでしょうか。ここでは「算盤」を計算器具としての「そろばん」と考えることにします。 近年の発達した情報通信技術は世界経済を動かし、個人が巨万の富を築くことも可能な時代になりました。計算機器としての機能を競うだけでは、そろばんは時代遅れとの批判を免れないかもしれません。しかし、そこに個人の能力開発や人格形成が伴えば、その有用さが色あせることはありません。

 『論語』にある「温故知新」の実践です。幼児の育脳、算数への応用、英語教育の一環としての英語読上算、国際交流、日本文化と歴史理解、高齢者の脳トレ、その他、社会的要請のある教育活動の一環として、新しいそろばんの魅力の開発と普及が肝要かと思います。小学校3~4年生の算数の中でそろばんが単元化されていて、学校とそろばん指導者の連携があることをさらに活用したいものです。

 かつて私が大学教員だった時、母校の慶応義塾大学で外国人研究者が参加する学術シンポジウムが行われた時など、福澤諭吉の顔が印刷された一万円札を財布から取り出し、「ここは彼が創設した大学です」と大学紹介をすることが時々ありました。しかし、アジア人研究者からは「『脱亜入欧』を唱えた人ですよね。彼の思想が日本のアジア侵略の思想的背景になりました」と言い返されることもありました。

 渋沢栄一が1万円札になったことで、著作として『論語と算盤』が取り上げられることが予想されます。しかし、渋沢のおかげでそろばんに再び脚光が当たるかもしれないと、ぬか喜びすることはできません。「そろばんなんて『論語』同様、今の時代にどのような使い道があるのですか」と問う人もいるでしょう。その時に、そろばんの変わらぬ価値と新しい教育・社会的効果を説明できるのが理想です。

 とはいえ、難しい話は抜きにして、ふだん教室でそろばんを教えている者としては、そろばんができる子は計算力、集中力、記憶力、勤勉さに優れ、勉強のできない子は少ないという事実が、何と言ってもそろばんの価値を雄弁に物語ってくれています。数年後に日本の最高額紙幣の顔となる渋沢栄一翁が、わざわざ著作の題名にまでした「算盤」を話材にして、楽しいそろばん談義ができればありがたいことです。

 今回この文章を書くに当たり、渋沢の出生地の埼玉県深谷市にある渋沢栄一記念館に、昨日の夕方すぎに電話して問い合わせをしました。新札発行の発表がされた当日で、記者会見が開かれたほか、各種問い合わせが殺到しているようでした。お忙しい中、丁寧にお答えいただき、ありがとうございました。記念館の近隣には関係施設がいくつもあり、見学へ行くのによさそうです。