先週8月7~9日に家族で京都へ行ってきました。今回の京都行きは、思いがけず妻の家系のルーツを探る旅になりました。元々は8月8日に毎年京都で開催される全日本珠算選手権大会に、わが家が経営する「こども教室もんじゅ」のそろばん・暗算コースの生徒2人が出場するのを引率することが主目的でした。しかし、8月1日に亡くなった妻の母の初七日にあたり、義母の京都にある生家を訪れ、京都の親戚に直接会って義母の他界を報告することも、京都ですべきことのリストに入りました。

 義母は京都御所の近くで生まれ育ち、やはり京都育ちの義父と結婚した後に、東京へ移り住みました。現在わが家がある東京都町田市に2人が住んだのは50年前でした。間もなくそろばん教室を始め、数千人の子どもたちにそろばんを教えました。義父は15年前に亡くなりましたが、義母はその後も10年余り、そろばんを教えました。今回の全日本選手権大会には、義母にそろばんを教えてもらった私の娘が出場するので、妻は義母の小さな遺影を持参し、大会の会場で娘の方向へ遺影を向けていました。

 大会の翌日、私たちは義母の生家へ行きました。妻は45年ほど前、子どもの頃に行って以来なので、場所はうろ覚えでした。覚えているのは京都の町家によくある土間があって奥に長い「ウナギの寝床」のような少し薄暗い家です。義母の戸籍に掲載されている京都の住所が頼りでした。タクシーの運転手に住所を伝えると、カーナビにその付近の住所が登録されていたので、辿り着くことができました。しかし、40年以上建てば家並みは大きく変っており、生家は残っていませんでした。

 近くの花屋さんに70過ぎの女性がいたので尋ねてみました。「昔ここに呉服の洗いと仕立てをしていた○○という家がありませんでしたか」。すると、「隣りがそうだよ。今はマンションになっているけど、その前は△△さんというお宅が呉服の洗いをしていたよ。○○さんじゃなかったね」と教えてくれました。義母の実家は祖父が亡くなると家業をやめて家を売ったと聞いていたので、恐らくその後に同業の他家が入ったのでしょう。義母の生家があった場所を義母の遺影に見せて戻りました。

 次は義父の生家です。義父が東京に出てきた後、生家には義父の兄夫婦が住んでいました。義兄から「伯父が亡くなって奥さんが1人で住んでいるはず。様子を見に行ってもらいたい」と依頼されました。妻が義父の生家へ行くのも、子どもの時ぶりです。義兄から教えられた住所をタクシーの運転手さんに告げると「その住所は六道珍皇寺だね」と言われました。平安時代に開創された由緒ある寺で、この時期は行事「精霊迎え 六道まいり」が大々的に行われています。周辺は交通規制が敷かれていました。

タクシーを降りると、寺の周囲には露店がたくさん出ていて、お祭のように賑わっていました。運転手さんが車中で話してくれた伝説――幽霊が子どもに与えて育てたという「幽霊子育飴」を売る店もすぐ近くにあり、買いました。義父の生家は、住んでいるはずの奥さんが不在でした。隣りのお宅の80歳ほどの男性に尋ねると、奥さんは病気療養で入院しているとのことでした。その男性は義父の幼馴染で、「オサムちゃん(義父)はこの辺りのガキ大将だったよ」と昔語りをしてくれました。

 義父の生家から歩いて200メートルもないところに六波羅蜜寺がありました。かつては平清盛ら平家一門の邸宅が集中していた一帯です。近くには鎌倉幕府が貴族たちを監視する警察機関である六波羅探題が置かれたことでも知られた地域です。六波羅蜜寺では、ちょうどお盆のこの時期、亡くなった方の魂を水塔婆で迎える行事「萬燈会」が行われていました。「お母様の初盆を故郷の京都でやらはったら喜ばれますえ」と、お寺の案内の方に促され、義父母の戒名と俗名を書いて水塔婆供養をしてきました。

 ガキ大将だった義父は、子どもの頃すぐ隣りの六道珍皇寺や六波羅蜜寺が、遊びのテリトリーだったでしょう。「六道まいり」の露店を毎年近所の友人たちと楽しんでいたはずです。「幽霊子育飴」も義父は時々食べていたかもしれません。義父母が東京で開いたそろばん教室を妻が継ぎ、その教室から娘たちが全日本珠算選手権大会に初出場した京都で、2人のルーツの一部を目の当たりにすることができました。亡き父母の子どもの頃を見たようで、また娘をそこに連れて行ったことに、妻は感慨深げでした。

 左の写真は「幽霊子育飴」です。幽霊がこの飴で赤子を育てた話は落語になっています。有名な話としては、漫画家の水木しげる氏がこの飴を買いに来て、その話が「ゲゲゲの鬼太郎」のモデルとなったそうです。右の写真は六波羅蜜寺の正面です。同寺宝物館の学芸員さんの説明によれば、もともと鴨川の東側は川の氾濫などで水害を受けやすいため、人が住まない刑場あるいは葬送の地でした。それが、平清盛の父親である平忠盛がここに邸宅を構えてから、権力の中心地として栄え始めたとのことでした。

(高橋門樹)