多くの日本人にとって、吉田松陰という名前は聞き覚えがあると思います。松下村塾という私塾でわずか2年ほど教えていたにすぎませんが、伊藤博文(初代総理大臣)、山縣有朋(第3代総理大臣)、高杉晋作(騎兵隊創設者)、久坂玄瑞(倒幕の指導者)など、日本を大きく動かした幕末の志士や明治の元勲たちを多く輩出しました。2015年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹が主人公になることが決定しているので、松陰は何かとこれから注目を集めるでしょう。≪もんじゅ≫では、「偉人の名言」として吉田松陰の言葉も暗唱テキストの1つとして取り上げています。そこで今回は、講談社学術文庫『吉田松陰著作選』の中から、興味深い記述を一部ご紹介します。

 幕末といえば、1953年7月に黒船が神奈川県浦賀沖に来航して開国を迫ったことをきっかけに、次代の日本のあり方をめぐって日本国中が、攘夷だ、倒幕だ、などと国論が沸きました。松陰の行動力のすごさは、伊豆下田に停泊していた黒船に、夜陰に乗じて乗り込み、ペリーに自らのアメリカへの密航を頼み込んだところです。1854年3月のことでした。鎖国をしていた当時の日本において密航者は、国禁を犯す重罪人です。しかし、先進国を自分の目で見てみたいという強い思いが、身の危険を顧みない行動へと駆り立てたのです。しかし、ペリーにとっては日本と初めての通商を実現しようと幕府と交渉をしている最中に、重罪人を手助けするようなことをしたら全てがご破算になるため、松陰の申し出を断らざるをえませんでした。船から岸に戻った松陰は獄につながれます。松陰は同年11月に、救国の思いと、日本がインドや中国のように外国に侵略されないための具体的な方策を、師の佐久間象山へ書き送りました。その現代語訳の抜粋が以下です。

「今日、諸外国の船がかわるがわる日本にやって来ている。日本人がそれら外国人の言葉を知らないでいて良いのだろうか。(中略)翻訳されたもので、その概要を知ることができないでもない。しかし、それぞれの国の書物で直接に学ぶということ以上に良い方法があるだろうか。だから優秀な人間を選び、各国に派遣し、その国の書籍を買わせ、その国の学問を修めさせたうえ、その人物に学校の教師をさせると良いのではないだろうか。(中略)諸藩の藩主が1万石につき1人の才能ある人物を選び、3年ないし5年ほど海外に留学させ、またいろいろ発明工夫をして新しいものを創り出す者がいれば、その者をとりたて、広くその新しいものを広めるようにすれば、これもまた藩の利益を高める1つの方策だと思われる。今日これ以上の急務はないと言って良いだろう。」(吉田松陰「幽囚録」から)

 外国人を「神州」である日本から追い出せ、という攘夷運動が盛んだった当時、松陰は幕府の許可もないまま黒船に乗り込み、獄においては外国へ優秀な人材を派遣する案を書きました。先見性と行動力にあふれた傑物でした。実際にこうした松陰の呼びかけに応えて、伊藤博文ら地元長州の若手たちは脱藩してヨーロッパへ渡り、帰国後に彼らは明治維新政府の総理大臣をはじめとする要職を務め、文明開化の駆動力となりました。「知識を世界に求める」。1868年明治元年に公にされた「五箇条の御誓文」に明文化された精神は、幕末に松陰によって声高に叫ばれていました。ただし、松陰の主張は、時代の先を走りすぎていました。松陰は、国に混乱を招いたとの罪状で、明治維新前の1859年に刑死します。

 松陰の慧眼が、その教え子たちを通じて時代の幕を開けたとも言えるでしょう。でも、彼が処刑されることなくもう10年生きていたら、自身で外国の地を踏んで世界の知識を貪欲にかき集めていたでしょうし、20年生きていたら、明治新政府で枢要な地位に抜擢され、自分が構想するグローバル人材育成政策を実現していたと思います。歴史の「もし…」の続きを想像してみたくなります。改めて松陰の言葉を読むと、その主張は平成の世においても色あせていません。私たちにできることは、160年も前に書かれた松陰の教育論を、今の時代にも活かすべく、若者たちが世界へ雄飛できる環境を整えることではないかと思います。

    門樹